
山口 篤樹
山口産業株式会社
代表取締役
やりがいは深い挑戦のなかで生まれる
YAMAGUCHI ATSUKI
佐賀にある「第四の建材」のパイオニア
佐賀の平野の一角に、鋼の骨と白い膜で編まれた巨躯が鎮座する。山口産業株式会社。膜構造建築を生業とする、少し風変わりな製造屋だ。かつて炭鉱資材の縫製工場として産声を上げ、今や万博のパビリオンや養殖施設の構築を手がける“第四の建材”のパイオニアとなった。代表取締役の山口篤樹は、会社が刻み続けてきた五十余年の歳月を背負いながらも、背筋を伸ばす。柔らかな語り口の奥に、「現状維持は衰退」という揺るぎない信条を秘めるリーダーである。
「できないと言わない会社」であるために
彼の物語は父親の急逝から始まる。専修大学で管理会計を学び、自動化機器メーカーで営業を経験したのち、1987年に家業へ戻った山口。創業当時の山口産業株式会社は炭鉱・造船所に関する仕事ばかりを受け持っていたが、父が他界したときには、その炭鉱は閉山へと進んでしまい、父が残した顧客基盤が根こそぎ消えた。売るものも、売り先もなかった。残っていたのは建設したばかりの新工場と、その負債、そして跡を継いだばかりの山口の執念だった。「借金だけが残った会社を潰すわけにはいかない」父の遺志を胸に、テントの膜材を建築に応用するということに山口は賭けたのである。
転機は1990年代後半。公共案件で初となる大型膜屋根を請け負い、フランス製の新素材でテニスコートを覆った。しかし完成後まもなく劣化が進み、張り替えを余儀なくされる。赤字は膨らみ、外野には「山口産業は長くない」と囁く声もあった。しかし、と山口の言葉は熱を帯びる。「できないと言わない会社でありたかった。昼はお客様先を回り、夜は工場に泊まり込み、全員で補修方法を探りました。大変厳しい状況でしたが、その上に得たノウハウが今につながっているんだと思っています。あのとき、諦めず頑張って本当によかった」この案件での経験と技術の蓄積は、後に東京ドームなど大型案件に採用されるA種膜材料を使用した膜構造建築物を手がけることにつながっていく。

広げる膜と可能性
現在、同社には設計・製造・販売・施工の4部門があり、約140名が一枚膜のように連動する優れた組織が構成されている。現場を歩くと、20代の若手がプロジェクトリーダーとして図面を掲げ、DX推進室がメタバース上で顧客に完成予想図を提示するシステムを開発している光景が見られる。「社長から“任せる”と言われたら本当に全部任されるんです(笑)」と中堅社員は語る。山口の挑戦が会社の文化となり、人を育てる循環が生まれているのだ。
経済産業省主催のDXセレクション2024で準グランプリを受賞するなど、デジタル変革にも積極的に取り組んでいる山口産業株式会社。特にメタバースを活用した営業と設計支援は、高精度の製品を仮想空間で体現することで、顧客への訴求力向上と営業活動の効率化を図る先進的且つ戦略的な取り組みとして、多角的な展開を予定している。
もちろん地元佐賀との連携も欠かさない。「MEMBRANE LAB.」プロジェクトでは、地域社会との連携を深め、佐賀大学などとの協業による物流パレットを活用した避難小屋「HütTENT」の開発など、地域共創から新しい価値を生み出している。
足下では農業・海洋分野への進出が加速する。膜は透光性と耐久性に優れており、陸上養殖施設や倉庫、牛舎、堆肥舎などに最適だ。さらに2025年大阪・関西万博では複数のパビリオンや膜屋根など総面積20,000平方メートルを超える膜構造を施工し、ここで培った技術や国際ネットワークを海外展開の起爆剤に据える。

戻る場所であり続けたい
今、社長として最も力を注ぐのは採用だ。都市部へ流出しがちな若者に、佐賀にも世界と戦う現場があると示すため、世界規模の万博での実績、メタバースの技術力で企業の存在感を高める。
ただ、と山口は語気を強める。「正直なところ、都会に行きたがるのは当然のことだと感じています。何しろ私が高校卒業後に上京して、佐賀以外の様々な土地を見て、刺激を受けてきましたから。しかしその経験があって、地元の良さがわかるようになったのもまた事実。未来の空間を創る仕事を、佐賀で実現できることを証明してきたからこそ、都会の荒波で経験を積んできた方とも、一緒に働きたいなと思います。仕事のやりがいは場所ではなく、挑戦の深さで決まることを感じたみなさんが、戻る場所として山口産業を選んでくれると大変うれしいです。」
佐賀の一工場から始まった挑戦は、いまや地球規模の課題解決を視野に入れる。その帆を張る風は、現状に安住しない気概と、人を信じる眼差しから生まれている。膜は軽い、だからこそ、未来へ運べるのかもしれない。
山口 篤樹
山口産業株式会社 代表取締役
1959年佐賀県多久市生まれ。専修大学卒業後、株式会社コガネイ(旧・小金井製作所)に就職、工作機械の部品営業としてキャリアをスタート。東京、大阪、京都での勤務を経て1987年6月、山口産業株式会社に入社。1992年9月、取締役就任。1995年8月、代表取締役社長に就任。全国に営業拠点や工場を展開するとともにMEMBRANE LAB.の設立、はばたく中小企業300選、DXセレクション準グランプリ受賞、佐賀さいこう企業賞の受賞など多方面にわたる取り組みで業績と企業価値の向上に取り組む。